独身貴族(?)の挑戦
    15年前の水槽写真館
家の大掃除をしていたら、古ぼけた段ボール箱が1つ出てきた。
それはタイムカプセルのように、15年前の独身で未だ何でもやりたい放題だったころの、水槽写真を中に閉じ込めていた。間違いなく自分で撮った写真のはずだが、今では記憶も定かでないようなものある。しかし、写真を見ているうちに、在りし日を思い出してきた。幼稚といえば幼稚、でも食べるもの食べず、収入をひたすら水槽につぎ込み続けていたオタクな独身貴族は、笑えると同時にちょっと浪漫もあるような気がする。そんなわけで、今も昔も変わらぬ下手な写真ばかりだが、ちょっとご紹介したいと思います。同時に、当時の海水魚飼育の常識とか物価なども振り返ってみるのも一興だと思う。
1990年1月 ベアタンク全盛とサンゴ水槽への憧れ
1988年の4月に、僕は某社の大阪勤務だったところが東京転勤となり、東京でのワンルーム一人暮らしを開始した。たまたま住んでいたマンションの1Fが海水魚の専門店B店であったことが、この物語の始まりだ。その年、夏のボーナスが水槽セットに消えた。最初に購入した60cm水槽セットが未だ落ち着くか否かくらいのタイミングで、早くも120cmのオーバーフロー水槽が発注されていた。ショップに紹介され仲間もできた。もう止まらない。⇒もっと見る
1990年3月 レイアウト水槽を模倣する試行錯誤
当時は淡水魚の世界で「レイアウト水槽」が大ブーム。ならば、と海水魚の世界でもサンゴレイアウト水槽が登場。しかし、まだ基本的な科学が全然理解できていなかった当時、ひたすらいろいろなシステムに向けての試行錯誤が続く。海水交換は半年に1回のリセット、という有様で、どんどんかたちもシステムも変わっていった。⇒もっと見る
1990年8月 超高級魚を追い求めて
だいたいにおいて趣味というものは、仲間がいるとエスカレートするものだ。雑誌の取材を受けて、当時一般人にとっては論外だった「ココスを飼うのが夢です!」と言ったことがきっかけで、ある日行ったこともない某ショップから電話が・・・『ココス、入りますよ。欲しいですか?』・・・そしてついに、行ってはいけないこの世の果てに僕は向かうことになる。⇒もっと見る
1993年8月 夢と浪漫の「私設・水族館」への道
「○○○が飼いたい」から「○○○と□□□を、△△△な水槽で飼いたい」へ・・・激しくエスカレートする道楽は、一線を越えてしまったあとは、ひたすら高みを目指す。失敗と知識と経験は、飼育技術の向上には繋がっても、人間生活を取り戻すには役に立たなかった。会社での新規事業企画案が採用され、賞金をもらったことが、ついに僕を「夢の水槽」の実現に向かわせてしまった。⇒もっと見る
1989年から1993年にかけての約5年間の猛烈な海水魚フィーバーは、1994年に僕が結婚し、独身貴族に終止符をうったことで終わる。当時僕の身近な人は、「森田が家庭なんか持てるはずない」と決め付けていたが、それはそれでもっともだ。わずか6畳プラスアルファのワンルームに、120cm1本、90cm2本、変形水槽1本、60cm以下の水槽で計6本というアホみたいな生活をしていたのだから。
一年中室温は23℃。夏でもヒーターが付くくらい冷やしまくって(何しろ当時海水魚用クーラーというのは活魚水槽用しかなかった)いたし、水槽の照明が付いている間は部屋の照明より明るいとか、電気代が常に5万円以上とか、風呂の湯船でサンゴ岩のキュアリングをやる、と思い立って、結局1年近くも自宅の風呂が使えず友達の風呂を借りたり、駅前のサウナで代用したりとか、およそまともな社会人なら出来ないようなことをやってきた。

しかし、夢と思っていた水槽も立ち上げられたし、写真こそ残っていないが45pキューブという小さな水槽にホツマツアを始め古今の超高級魚を泳がせたし、あの「ペパーミントエンゼル」日本上陸第一号は僕の水槽に泳いだのだし、実際思い残すことは無かったから、結局カミサンは一度も僕の水槽だらけの人間離れした部屋をみることなく、僕は全ての水槽を売り飛ばしたり人にあげたりした。「ハンパなことはしたくない」と結婚したら二度と海水魚はやらない、と宣言して、最愛のココスをショップに引き取ってもらったときは、さすがにちょっと泣けた。

結局、僕の友人や水槽を差し上げた方たちから当時の僕の話を聞いたカミサンが、「そんなに好きならやってもいいよ」と言って家計をやりくりして90cm水槽を買ってくれた1996年までの3年間、僕の珊瑚水槽道楽は小休止しただけだった。。。

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